孫と天使と二の腕

キリシタンのジャニオタでえ〜〜すイェイイェイ

私とSHOW BOY

 SHOW BOYは楽しかった。

 あまりの楽しさに観た直後は語彙力が死んでいた。というのもあるし、単純にその引っかかりを忘れていた、というのもあってなかなか文章にしようという気が起こらなかった。

 が、いろんな方の感想を見ていくうちに自分でもやはり書いておこう、と思えてきたので筆を執った次第です。

 感想というより黙想です。キリシタン目線で見たSHOW BOY。

 

「人生って変えられるの?」

 楽しい楽しいSHOW BOY。その中で、私は二度の「引っかかり」を感じていた。


 少女が越岡ギャンブラーおじさんに言う。「人生って変えられるの?変えられないの?」そしておじさんは最初にこう答えた。「見りゃわかるだろ」

 変えられる、と言えば人生に希望が持てる人がいる。変えられる、と言った方がきっとあの作品の中では正解に近い。

 ここでキリシタンである私は立ち止まって考えてしまう。なぜなら、この質問に対する教理的な答えは「変えられない」だからだ。

 すべては父なる神の永遠の計画のうちにある。だから人間がどう足掻いたところでその計画が覆ることはない。その人に定められた人生を変えることは不可能なのである。

 しかし人生を変えることが不可能だからと言って、おじさんの最初の答えが教理的に正解かと問われればそれもまた違う。神の計画は見てわからないからだ。良いことにしろ悪いことにしろ、「こうなるだろう」と予想したことがすべてその通りになるばかりが人生ではない。

 「人生は変えられる」という傲慢も、「どうせこのままだ」という諦めも、どちらも不信仰といえる。

 

旧約聖書コヘレトの言葉3章1〜8節

日本聖書協会共同訳より)

天の下では、すべてに時期があり

すべての出来事に時がある。

生まれるに時があり、死ぬに時がある。

植えるに時があり、抜くに時がある、

(中略)

愛するに時があり、憎むに時がある。

戦いの時があり、平和の時がある。

そして11節でコヘレトはこうも語る。

神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。


 分岐点で自分で進む先を決めた結果だったり、あるいは他人の選択に巻き込まれることで、人生が思わぬ方向へ傾くことがある。それも「その時」だからだ。

 おじさんが起業したのも、山を売ったのも、勘当されたのも、全財産失ったのも、少女と出会ったのも、その時だったからだ。

 何もおじさんだって、初めから「見りゃわかるだろ」と投げやりだったわけではない。何かが変わることに望みをかけてカジノへ行ったはずだ。おじさんは、希望を知らない人間ではなかった。

 おじさんは出会うべき時に少女に出会い、彼女との対話の中で変わる。悲観的だったおじさんは、自分の人生のその瞬間を楽しめるおじさんに変えられたのだ。それらは時に適って麗しく実現された。


 私が出したキリシタン的回答は「人生は変えられないけど変えられる」だ。

 前者の「変えられる」は自分の力で、後者の「変えられる」は自分以外の力で、だ。

 たとえば、信仰を持って洗礼を受けた人は皆こう言う。「神によって変えられた」「それまでの人生とは180度変わった」。これらは、「変わる」ことが神の計画のうちにあったからだ。

 おじさんは少女に、自分が変わった瞬間を見せることができた。

「人生は変えられるって、わたしに証明して見せて」

 少女はきっと、おじさんが約束を果たしてくれたと心から思っている。そこに水を差すことはキリシタンの仕事ではない。彼らのその幸福は受け入れられるべき幸福だ。

 少女はおじさんが人生を変える瞬間を見たし、私はおじさんが変えられる瞬間を見た。

 

 

「もったいないことしようよ」

 また頑張ってそれでもダメだったらもったいない、と自嘲気味に言うエンジェルに、見習いくんは言った。「もったいないことしようよ!」

 ふたつあったうちの、もうひとつの引っかかりがこれだ。

 私、もったいないことちゃんとしてきたか? という突然の自問自答が始まる。

 私は自分でできることをしていたい、と思うタイプの人間だ。できないことをするための苦労はあまりしたくないし、できればずっとヘラヘラしていたい。キャリアアップのためのセミナーなんててんで興味もない。ひょっとして、エンジェルの言う「もったいない」にすらたどり着けていないのでは?

 もったいなさを否定はしない。私だって友人が努力していれば応援するし、その結果で得たものを共に喜ぶことだってある。努力は美しい。しかし、だからこそ眩しい。


 観劇から2日が経ち、眩しさに目を細めながら作品を咀嚼していた私は突然気が付いた。

 私、もったいないことしてるんじゃない?

 日曜日。仕事は休み。そんな日に私は普段と同じ時間に起き、会社に行くよりも早い時間に家を出る。

 そして長い日は夕方まで教会にいて、今日も頑張りましたね〜と家族と労いあいながら帰ってくる。これが毎週だ。もちろんノーギャラ、子どもたちに聖書のお話を教えても一円も給料は出ない。

 時には土曜の時間を使ってチラシを作ったり会議をしたりする。

 これはもしや、「休日返上」という世間様から見ればもったいないことなのでは?


 新約聖書に、「タラントンのたとえ」という例え話がある。

 ある金持ちが、旅に出る前に三人の家来にそれぞれの力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けていく。

 5タラントンの者と2タラントンの者はそれを元手に商売をして、倍の金額にした。しかし1タラントンのものはそれを地面に埋めて隠しておいた。

 主人が帰った時に家来たちは各々増やしたタラントンを差し出したが、1タラントンの者はそのままの額を主人に返した。主人に褒められたのは、タラントンを増やした家来だけだった。

 要するにこれは「与えられた才能を神のために使え」という意味の話なのだが、もしタラントンを預かった家来がそれで商売をして儲けがほとんどなかったとしても、主人はその家来を祝福していただろう。

 このタラントンは当時のギリシアの通貨だが、この例え話が転じて今日の「タレント」、つまり才能の語源になっている。キリシタンは才能に限らず、与えられたものをタラントンと呼ぶこともある。

 1タラントン預かった家来は「もし5タラントンを元手に商売して、失敗したらもったいない。そのまま取っておけば確実に満額お返しできる」と思ったのかもしれない。

 5タラントンと2タラントンのふたりは、もったいないことをしたのだ。

 人が来るか来ないかわからない集会のためにチラシを作る。配る。貼る。私たちはそんなことをもう何年もしてきている。

 ああ、なんてもったいないんだろう!

 チラシを1500枚配って足を運んでくれた人が1人でも、それだけでも10タラントンレベルの喜びだ。

「もったいないことしようよ」

 見習いくん、いいこと言うよね。

 

 

与えられた仕事をする

 主演ダンサーに向かって、裏方は言った。「お前はお前の仕事を全うしろ。俺は俺の仕事をする」。

 与えられた仕事がその人にとってのタラントンだ。主演ダンサーには主演ダンサーの、裏方には裏方の仕事が与えられている。

 その後、主演ダンサーの代役として裏方はステージに上がる。それも彼の仕事だ。その日与えられる仕事がいつもと同じアイロンがけだとは限らない。

 舞台上で輝いていたマフィアも、自分に与えられた本当のタラントンを見つけた瞬間だったのかもしれない。あの夜の彼の仕事は拳銃の取引をすることではなく、ディーバとなり舞台に上がることだった。人を喜ばせる仕事をしたかった、と吐露した彼もまた、人生を変えられたひとりだ。

 宗教改革で有名なマルティン・ルターは「たとえ明日世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える」と言った。その翌日にリンゴの木を植えることを、彼は以前から決めていたからだ。

 だから私も、自分の仕事をしたい。

 世界の終わりの日、「今日、お前は何をしていたか」と問われた時に「与えられた仕事をしていました」と言えるキリシタンに私はなりたい。


 もし、SHOW BOYが「人生を楽しむことの美徳」を押し出し「さあさあ、君はどうする?」と問いかけてくる作品だったら私はここまでSHOW BOYを楽しめていなかっただろう、と思う。

 SHOW BOYは、「ぼくたち楽しんでまーす! イエーイ! 生4つー!!!!!」と楽しむだけ楽しんで、その楽しい塊をひたすらこちらに豪速球で投げかけてくる作品だ。観劇後何を考えるか、そもそも考えるかどうかの選択も、観客のまったくの自由だ。あの船は考えろ、とは言わなかった。ただ「観てくれ」と訴えてくる、それがSHOW BOY。

 よいものを誰かに伝えたい時にかけるべきなのは圧ではなく、愛情と情熱と与えられたタラントンだということをSHOW BOYは教えてくれた。

 だから私は、SHOW BOYをずっと好きでいられる。

 


 Ride on! とふぉ〜ゆ〜が拳を突き上げる。その瞬間、「ああ、私は私に与えられた人生を自分のために楽しんでもいいんだ」と心から思った。

 私はよほど神様から心配されているのか、一見なんの関係もなさそうなところから自分の信仰を見直したり様々なことに気付かされることがよくある(これを「真理契機」と言います)。まるで、私がキリシタンでなくなる瞬間を作らせないようにされているかのように。

 日曜日だけ、礼拝の間だけでなく、私は生きている限りキリシタンでありたい。その信仰を持ったまま、喜んで、楽しんで生きていきたいのだ。


 私がSHOW BOYという作品に出会えたのも、時に適って麗しいのだ。ガハハ!

 

 

 

 

 

 

※これはひとりのキリシタンが観たSHOW BOYの印象であり、実際に脚本にこのような教理が意図して描かれていたことを証明するものではありません。ということをここに付け加えておきます。