孫と天使と二の腕

キリシタンのジャニオタでえ〜〜すイェイイェイ

キリシタンがGACHI千穐楽を見てベショベショに泣いた話

超久々のはてブ
ブログ向いてない私がまた何かを書きたくなった、それだけのものがGACHI千穐楽にはあった。
以下、キリシタンの黙想。深読みをしています。
※クソ長いですが大半が愚痴であとはレポではなくふぉ〜ゆ〜賛歌です。宗教観バリバリ入ってるので気持ち悪いよ!

まず大前提として、タイトルにもあるように私はキリスト教徒である。
GACHI千穐楽は日曜日。日程が発表された時、私は行くのを諦めていた。日曜の礼拝で主と相見える時間は私にとってなくてはならないものだからだ。
しかし、スケジュールを調整すれば都内の教会の礼拝に出席した後シアタークリエに走れば間に合うかもしれない、ということに気がついた。友人から千穐楽のチケット(しかも前方下出通路側。感謝しかない)があると誘いも受けていたので、お言葉に甘える形で千穐楽観劇を決行した。

私が取った宿の近くに、他教派の教会があることを知った。私の所属する教派ともさほど遠くない(と思っていた)派だ。私はそこへの出席を望み、当日無事に時間にも間に合いその礼拝への出席がかなったわけだ。
私が所属している教会は、毎週の礼拝出席人数が30人に満たない。しかしその日私が出席した教会は、300人以上を収容できる会堂を持つ大きな教会だった。
幸い、使っている讃美歌や聖書も母教会と同じもので、礼拝の式次第もほぼ同じ。不自由はなかった。

私事ではあるが、最近家族がある大きな召命を受けた(ようである)。そのことについて日々祈っていたのだが、その日の礼拝説教はまさにそれに寄り添うような内容だった。
家族のことを思い出し、私は初めて出席する教会の礼拝堂で泣いていた。主のご計画は時にかなって美しい。このタイミングで私がその先生の説教を聞けたことは本当に良いことだったと思っている。

礼拝後、ある婦人が私に話しかけてきた。
「今日はどうしてこちらに?」
彼女は笑った。薄ら寒い笑顔だ。口角を上げて目を細めただけの、ただ表情筋を使っただけのような笑顔。
「自分の教派の教会より宿から近かったんです。午後から有楽町で用事があるので」
「うちを選んでくれてありがとう! 普段はどこの教会へ行ってらっしゃるの?」
私が自分の教派の名を告げると、彼女は笑顔のまま言った。
「私も少しだけそちらの教派の教会へ行っていた時期があって、そこの方と仲良くなったの」
オッ、と私は嬉しくなる。私のいる教派はあまり大きい所ではないが、そのぶん横のつながりは強い。もしかしたらその人の友人は私も知っている人かもしれない。
その人の名を聞く前に、彼女はこう続けた。

「でも最近絶交したの! もちろん信仰のことでね」

ハ???????もちろん、とは?
意味がわからなかった。なぜそれを私に言うのか。
〇〇派(私の所属する教派)はこうこうこういうところがあるでしょう、それでその人は頑なになっていて、あまりにも腹が立って絶交を言い渡したの。
彼女は薄ら寒い笑顔のままで、私は乾いた声でハァソウデスカ、ハァスミマセンデシタ、と繰り返すだけだ。

私は心の中で叫んだ。
ロボット着てェ!!!!! 誰にも傷つけられないロボット着てェ!!!!!!!! パンチが世界一周さ!!!!!!!!!

なぜ彼女は、わざわざ私にその話をしたのか。さも「あなたも自分の教派のそういう所でお困りでしょう」というような口ぶりだ。
私は私が育ったその教派のことが好きだ。頭が硬すぎると言われることもあるがそれは外から見た印象だろうと思う(外に対する配慮に欠けるところは否めないが)。
酒だって飲むしタバコだって吸うしジャニヲタだっている。硬いだけの時代は廃れようとしている。聖書に基づいてこの世を楽しむすべを見出し始めているのだ。
それを面と向かってディスられた、初めて行った教会で。
初めて礼拝に出た学生が、自分の学校名を告げて「あなたの行ってる大学はレベル低いよねえ」と笑顔で言われたら次から来なくなるだろう。
初めて教会へ行ったフリーターが「正社員じゃなければ生活も安定しないわねえ」と笑顔で言われたらキリスト教不信になるだろう。
彼女がしたことはそういうことだとわたしは思っている。

最後に彼女は言った。

「また来てくださいね。じゃあ、落語楽しんで!

話を聞いていたのかお前は!
私は「有楽町」としか言っていない。するってえと何かい、お前さん四遊亭歌雄をご存知で? ハッハァそりゃまた嬉しいこって。ちょいと握手しましょうやって
なるかボケ!!

(恐らく「ゆうらくちょう」の「らく」だけ聞き取れて「落語」だと解釈したと思われる)
人の教派をディスった直後になぜ「また来て」と言えるのか。

彼女はご丁寧に「二度目の時はもう、受付通ったら勝手に新来者*1席に座ってくれていいから。本当はこっちが新来者席なの」と礼拝堂の端にあるブロックを示して説明してくださった。

そこが新来者席であることを私は知っていた。だって札がかかっていたのだから。
私を案内してくれた受付の女性は私が信徒だと知るとセンターのブロックへ座るよう勧めてくれて、そのブロックにいた信徒さんも私のためにわざわざスペースを空けてくださったので私はそこに座ったのだった。
なんだそのルール。座るところなんてどこでもいいだろうが。
彼女は薄ら寒い笑顔を崩すことは一度もなかった。

私がその婦人の行動にあっけに取られていると、また別の女性が話しかけて来た。牧師夫人だと言う。
私が知っている牧師夫人とは趣が違った。私の周りの牧師夫人は大半が肝っ玉の据わったジャイアンの母ちゃんみたいな人たちなのだが、私に話しかけて来た夫人は嫋やかでにこやかで、「クリスチャン女性はかくあれ」といった理想像を体現しようとしているかのような雰囲気だった。
夫人は先の婦人のように、私の話もそこそこに自分の教会の話を始めた。
やれ伝統を重んじているだの、やれ毎日勉強会を開催しているだの、やれ旧日基*2がどうだの

うるせえ!!!!!

こちとら伝統を重んじすぎて若者離れ甚だしい教派出身だわ! 毎日勉強会? 牧師休ませてやれや!! 旧日基? 全てのキリスト教徒が自分の教派の歴史に詳しいと思うなよ!

(信徒にいちばん大切なのは信仰だと思っているので日常会話レベルで歴史の話ができるほどの知識は必要ないと思っている)

しかしそこでうるせえ、と思ってしまったことには私側に非がある。本来ならハイハイと聞き流せるような内容だ。しかし先の婦人のおかげで私のイライラゲージはMAXに近付いていた。
牧師夫人は、私を牧師に紹介するからと玄関付近へ連れて行ってくれた。
正直、私はその日の説教をされた協力牧師*3の方にお礼が言いたかったのだけれど(できれば少し話もしたかった)。
玄関付近で牧師は別の信徒さんと話が弾んでいたようだった。夫人はそこに混ざって自分も話し始める。

エッ? エッ???
ワイは??????

そして私の方を向いてニッコリ
「もしお急ぎでしたら…」(玄関を指差す)

ねえwww私あなたに引き止められたからここにいるのwwwwww開演までまだだいぶ時間あるのwwwwww誰かロボット連れてきてwwwwwwwwwそれかロベルト連れてきてwwwwwwwww

そうこうしているうちに協力牧師も見失う。
やっと手の空いた牧師はにこやかに私に話しかける。

「今日はようこそいらっしゃいました( ◜◡◝ )」

以上。

ありがとうございましたwwwwwwwww

その教派自体が悪いわけではない。説教だって本当に良かったのだ。礼拝終わってすぐに先生に握手しに行けばよかったと悔やまれるレベルで良かったのだ。
ただ、私に話しかけてきた人たちが私とウマが合わなかった。それだけのことである。たった2/300が合わなかったというだけのこと。
誤解されがちだが、教会というのは建物のことではない。信徒が集まり共に礼拝を守る共同体のことを「教会」と呼ぶ。
要するに教会とは人の集まりなのだ、様々な者が集う。合わない人だってもちろんいる(たった30人の母教会ですらいるのだ)。
様々な教会がある。その中で私は今回、私にとってのハズレを引いてしまった。ただそれだけのことだ。

が、それだけのことでもイライラはする。
これからGACHI を観るのに、腹のざわつきが治まらない。昼食は抜いた。食べる気分にはなれなかった。

クリエへ赴き、席に着く。空腹どころか、胸の中に何かが詰まったようで吐き気すらする。
これからGACHI を観るのに。トイレにも行かなかった。もう開演間近だ。
もうすぐ始まるというのに見学者のバルコニーばかり見ている客席にすらイライラした。それほど私の精神は綱渡り状態での開幕だ。
なぜ教会へ行って腹を立てなければならないのか。なぜこれから楽しい時間を過ごすはずなのに腹を立てているのか。胸をかきむしって内臓を放り出したい気分だった。しかし時間は止まらない。

開幕。

緑色のライトに照らされた福田悠太がジャケットを羽織った。

っべー。っべーわ。
観るのは5度目である(5度目である)。
しかしこの日がいちばん、よい「フゥ〜ッ⤴︎」が出た。なんなら礼拝でのアーメンより出たかもしれない。
to meのダンスが終わり、ふぉ〜ゆ〜会議のシーン。
辰巳くん「伝統がやりたい!」

ここで松崎くんが天井を見上げるのを観て毎回笑っていたのだが、「伝統」の一言で私の脳裏にイライラがフラッシュバックする。

お?? 伝統ってか? 旧日基批判くるかコラ?(来ねえよ)
そうだった、私はさっきまで腹を立てていたんだった。しかしほんの数分で私はそれを忘れかけていた。すごいぞふぉ〜ゆ〜。ふぉ〜ゆ〜すごいぞ。
どうやら福田悠太さん、ご自身のパイオツがお気に入りのご様子。敬虔な信徒(ここ笑うところです)の私だが、彼らの言うところの「おげれつ」を笑える感性だって一応は持ち合わせているのだ。
ねえ辰巳くん、ポーラちゃんのパイオツは硬いの? やらかいの???

ボロボロボット。
初見時の感想は「闇が深いよ!ふくだくん」(幼年向け漫画のタイトルロゴの雰囲気で)
けれどこの日、私はもはや福田悠太に闇を感じなかった。
「どうして人間はこんなに簡単に人間を傷つけられるんだろうなあって」
\わかるー!!/
もうボロボロボット応援上演やろうや。

何度も観ていくうちに気付いたことがあった。
始めは「闇堕ち仕掛けた福田くんを松崎くんが救う話」だと単純に思っていた。「福田くんは松崎くんが好きねえ!ハイハイ!」といういつものやつ。
確かに話の大まかな流れはそうなのだが。
福田ロボは歌う。

これで傷つかない

もう誰にも傷つけられない

ぼくはひとりで生きていける

ロボットの鎧をまとい、身を守る福田ロボ。ロボは人を信じない。
彼は傷つかない。鎧で身を守っているからだ。しかし、傷はつかないが、攻撃はされるのだ。
彼はただのロボットではない。攻撃を受け続け「ボロボロ」なのである。
そこに現れたコロ助(ちょんまげがどう見てもコロ助なのでそう呼ぶ)は叫ぶ。
「俺は人を信じるぜ!」
コロ助は敵と戦う。福田ロボを庇いながらだ。コロ助の刃は敵に当たらない。コロ助は敵を傷つけない。
コロ助は無敵ではなかった。福田ロボを守り致命傷を負う。無敵ではないヒーロー。自らの身を呈して誰かを守る。強くなくとも。
その姿を見て福田はロボットの鎧を脱ぎ捨てる。泣き喚きながら脱ぎ捨てる。生身の福田悠太が叫ぶ。
「やめろ!」
敵とコロ助の間に入り、敵に背中を見せた福田悠太は丸腰である。殺せる。どこからでも。
しかしそこで攻撃の手は止む。敵は踵を返して去り、福田悠太は生きている。
ロボットを脱ぎ捨て、ひとりで生きていくことを放棄して生身の人間になった彼は攻撃されなかった。攻撃がやんだのではなく、攻撃を攻撃ともしない何かを得たのではないだろうか。
もちろん攻撃がゼロになることはないだろう。世の中には理不尽なことがある。こちらが気をつけていても攻撃を受けることなどザラだ。
しかし鎧を着て攻撃を受け続けることは、傷つかないことよりも苦しい。ひとりで身を守っていると、そこから動けなくなるのだ。
ひとりでいれば自分以外の全てが敵で、全てが攻撃だ。ひとりでなくなる、ということは、敵が減る=攻撃の手数を減らせるということなのかもしれない。
本当は一度で気付きたかったけれど、私は千穐楽でようやく気付いた。ロボットがボロボロだということに。
コロ助は起き上がり、言った。
「おれ、カッコいいか?」
カッコいい「だろ」ではない。「カッコいいか?」。疑問形である。カッコいいかどうかは、福田に委ねた。
そしてその後の福田悠太のニヤニヤが全てを物語っていた。と、思う。
カッコよかったよ!コロ助!!!!

You Raise Me Up、初日は「私の好きな曲!」という理由で感動した。
千穐楽、私はただただ泣いていた。ベショベショに泣いていた。手ぬぐいはリュックの中。視界がぼやけて自担が見えない。クソ。誰だ歳だから涙腺ゆるいとか言ったの。辰巳か。おめーも同じ歳だろうが!

数年前に尊敬する牧師から「僕の好きな讃美歌だよお」と紹介されたのがYou Raise Me Up。
後で調べてみたら別に讃美歌として作られた曲じゃなかったけどな!
しかしこれはキリスト教徒にとってはアーメンの連続である。

私を支え励ます 不思議な愛の力
そこにあなたさえいれば
満たされ強くなるの

これである。そこに主がいれば満たされ強くなる。そこでふぉ〜ゆ〜が踊っていればヲタクは満たされ強くなる。
ゆ〜Raise Me Upである。
誤解を招きそうなので言っておくが、ふぉ〜ゆ〜が神だと言っているわけではない。ふぉ〜ゆ〜はそこにしかいないが、神はどこにでも臨在される方である(これを聖霊と言います)。

この曲の「you」は何にでも当てはめることができる。私はこれを神に当てはめて歌うことがあるが、ふぉゆ担ならばゆきえさんのように「ゆ〜」に、あるいは友人、家族、恋人に。
本当に、曲を作ったふぉ〜ゆ〜の意には反することかもしれないがA.RI.GA Timesにも同じことが言えると思う。
私もうこれ讃美歌として使いたいですわほんと。

隣で笑っててよ この先これから先も迷惑かけちゃうかもしれないけど
隣で笑っててよ この先これから先も感謝してるよ今もずっと
それぞれが生きてきたGood time
それぞれが感じてたBad time
ねえちょっと待って 今の無駄なTime
それもすべて必要なTime
for you

こういう気持ちでキリシタンやってます。
よい時間も悪い時間も、すべて必要だったこと。
よい時間を「生きてきた」けれど悪い時間は「感じていた」。そう感じていたけれど悪い時間ではなかった、の、かも、しれない、ね?
すべての時間というものは、神の永遠の中に存在するものなので、神が関与していない時間はない。
彼らが信じていようがいまいが、神はそこに在る。在る、というのが私の信じる神の名だからだ。

その後のカーテンコールからのGACHI ×4は楽しかった。ただひたすらに楽しかった。
緞!帳!を忘れたことだけが悔しい。地方では必ずやるぞコラァ。

しかし福田悠太。彼が言った。(以下ニュアンス)
「僕たちとみなさんはアイドルとファンいう関係ですけど。みなさん嫌なことあったら友達に愚痴るでしょう。僕らのこと友達みたいなもんだと思っていいんで。僕らを見てみなさんの中の何かになればいいと思うんです」
なんだこいつ。
私は自分の人生すら自分で背負いきれず、十字架に引っ掛けてそこにぶら下がって生きているような人間である。
それなのに彼は、何千何万いるかわからない自分たちのファンの「嫌なこと」を引き受けそれをぶち壊してやるぜ、と言うのである。いやそこまでは言ってないのかもしれないけどそれ的なことだと私は解釈したぜ?
福田くん、心の広さ何億ヘクタール?

「You Raise Me Up」の「Raise Me Up」は、「起き上がらせる」と訳されることが多いが、この「You」を神に当てはめた時、私は「押し上げる」というイメージを持っている。
キリストは神に見捨てられるというこの世において誰も経験したことのない最大の絶望を味わって命を落とした。私は彼より深いどん底に落ちることはない。常に上に座しながら、彼は下から私を押し上げる。
先日、友人は「Raise Me Up」を「引き上げられる」と言った。この日私を引き上げた「You」は、福田悠太だった。
福田悠太が私の首根を掴み、主が押し上げた。なんだこの連携プレー。ごめんな福ちゃん、付き合わせちまって。

帰りの新幹線の中、私はこのことに想いを巡らせそしてある物語を思い出した。
靴屋のマルチン」*4だ。
要するに「神はどんなところからアプローチしてくるかわからないけど気付かされるポイントはどこにでもある」という話なのだが。
私が午前中、礼拝後に感じたイライラは千穐楽を楽しむための、そして福田悠太のメッセージを真摯に受け止めるための前振りだったのではないだろうか。


というようなことを母親に話すと、彼女はこう言った。
「最近さあ。イライラする人の中にも神様はいるんだなあと思うんだよねえ。そこからなんか気付かされるんだよねえ。靴屋のマルチンみたい」
私は靴屋のマルチンの話は母親にはしていなかったが、やはり同じことを考えていたようである。(靴屋のマルチン、というワードが出た瞬間に親子で涙ぐんだ気持ち悪さ)

私にここまで気持ち悪いことを考えさせるようなステージを作った彼らは本当に強いエンターティナーである。
彼らは強い。弱い時こそ強い、って私の尊敬するパウロ先生*5も言ってました!

 

今気付いたけどコロ助もロボットだわ。

*1:初めて教会に来た人

*2:日本基督教会。昔あった日本のキリスト教の教派。うちの教派的に言うと戦前戦中にいろいろ「やらかした」らしい。その反省を踏まえて今の日本のキリスト教があるそうです

*3:大きい教会は牧師が何人もいることがある

*4:http://www.cnet-sc.ne.jp/kohituji/ohanashi/martin.html

*5:世界で初めて目からコンタクトレンズ落とした人